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民主党のフランクリン・ローズヴェルト

アメリカでは1932年の選挙で、民主党のフランクリン・ローズヴェルトが大統領に当選した。ローズヴェルトは33年3月に就任するや、まず農業調整法(AAA)によって農産物の作付を制限し、過剰な農産物を買い取るなどして生産と供給を調整し、生産物価格を引きあげて農民の生活を安定させ、全国産業復興法(NIRA)で政府と企業との協力を強めて生産の制限や価格の統制、賃金引き上げなどを企業におこなわせ、企業間の公正な競争を促した。

さらに混乱した国際経済からドル経済圏をまもるため金本位制から離脱し、テネシー川流域開発公社(TVA)などの公共投資による地域開発を推進して、失業者を減らそうとした。また、1935年、全国労働関係法(ワグナー法)によって労働者の最低賃金および団結権と団体交渉権を保障した。

こうした一連の、政府の積極的な経済への介入政策はニューディール(新規まき直し)とよばれ、社会対立の拡大を阻止して、国民経済と生活を安定させようというものだった。

外交面では、1933年ソ連を承認し、ヨーロッパにおける列強の対立に対しては、公式には中立を維持した。ラテンアメリカ諸国に対しては、それまでの高圧的な態度をゆるめ、キューバのプラット修正条項を廃止するなど内政干渉をひかえ、かわりにドル経済圏に組み入れようとする善隣外交政策がとられた。

ヨーロッパの対応
世界恐慌に対して各国政府は、積極的な国際協力はおこなわず、自国本位の解決策を追求した。

アメリカとならんで、世界恐慌の影響がもっとも深刻だったドイツでも、工業生産は1929年からの3年間で半分近くに減少し、3人に1人が失業者というありさまになった。経済の混乱と社会不安のなかで、33年に成立したアドルフ・ヒトラー率いるナチ党政権は、軍需生産や土木工事を増大させ、フリッツ・トートを中心に進められたアウトバーンの建設などで大規模公共事業をおこして、失業者を吸収した。

イギリスもまた貿易不振と失業者の増大に苦しんだ。マクドナルド内閣は失業保険を削減しようとしたが、これには与党の労働党が反対してマクドナルドを除名した。そこで彼は、保守党や自由党の一部と挙国一致内閣(1931年 - 1935年)を組織し、金本位制の停止、国費の節約、保護関税などを実施した。さらに、1932年にはカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)をひらき、連邦内の貿易決済をUKポンドで行い、連邦内の商品は無税か低関税を、外国商品には高関税をかける帝国特恵制度の採用を決め、イギリスと各自治領が結束して関税障壁で自衛する、排他的なスターリングブロックが形成された。なお、1935年ネヴィル・チェンバレンの保守党政府が成立すると、ナチス・ドイツの反ソ的態度に期待して、ドイツの要求に譲歩する宥和政策をとった。

フランスでは、恐慌の影響が1932年になってあらわれ、政府はイギリス同様、植民地や友好国とフラン通貨圏(フランブロック)をきずいて、経済を安定させようとした。国内政局は不安定だったが、ドイツのヒトラー政権成立や国内の極右勢力の活動などにより危機感をもった中道・左翼勢力がまとまる傾向をみせた。1935年には仏ソ相互援助条約が結ばれ、翌36年には社会党・急進社会党に共産党が協力して、1936年、社会党のレオン・ブルム首相による「反ファシズム」の人民戦線内閣が成立し、大規模な公共事業を展開し、労働者の待遇改善を進めたが、政権の内部分裂もあり、経済危機をのりこえられないまま退陣した。

ドル・ポンド・フランなどの通貨を軸に経済圏をつくり、他国の商品を排除するブロック経済は、国際経済をますます縮小させ、弱体な中小諸国の経済を圧迫した。

一方、ソ連は資本主義世界との交流が少なく、世界恐慌の影響をうけずに社会主義の基礎をきずいたため、その計画経済は資本主義諸国からも注目された。しかし、スターリンは独裁的権力によって多数の人びとを根拠のない罪状をきせて粛清し、スターリンの個人崇拝を強めた。共産党の一党支配によるスターリン体制の確立である。対外的には、ソ連は国際社会への参加をすすめ、1934年には国際連盟に加盟した。

昭和恐慌と満州事変
満州某重大事件の処理について昭和天皇の怒りを買って田中義一内閣が倒れた後、濱口雄幸内閣が誕生すると、蔵相井上準之助は産業の合理化、旧平価による金解禁で日本経済を立て直そうとした。しかし、世界恐慌で世界の経済状態が大混乱に陥っているときに、1930年1月11日金解禁を実施したこともあり、日本経済はまたもや恐慌に陥った(昭和恐慌)。

同年11月、濱口首相がロンドン海軍軍縮条約調印にともなう統帥権干犯問題により右翼に狙撃され、内閣が倒れると、同じ立憲民政党から第2次若槻内閣が成立したが、有効な対策を講じることができないまま1931年9月の満州事変の勃発により早々と倒れ、同年12月、立憲政友会の犬養毅内閣が成立した。犬養内閣の高橋是清蔵相は、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行し、民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った。金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気も急速に回復し、1933年にはソ連を除く他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準を回復した。
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高橋のインフレ政策には、軍拡的な意味合いも含まれていたが、景況改善後の資源配分転換と国際協調の流れに併せた機動的軍縮が、のちに肥大化した軍部に阻まれることとなる。

満州事変におけるあまりにも鮮やかな軍事的成功の時期と恐慌からの脱出の時期が重なったことは、既成政党の政権争いに不信をいだいていた国民に「頼りになるのは軍部」という考えを浸透させることとなった。

しかし、その一方で日本の軍事行動は国際的に批判され、中国の提訴によって派遣されたリットン調査団は事変は自衛権の発動によるものであるという日本側の主張をしりぞけ、国際連盟もそれを支持したので、1933年3月、連盟の脱退を通告した。また円安による輸出の増加は先進諸国よりソーシャル・ダンピングだとの批判を浴び、日本は国際的に孤立の度を深めた。

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2009年03月08日 10:18に投稿されたエントリーのページです。

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